香川

【香川県】皇踏山城②「中世の山城編」スーパーアドバイザーは静岡大 助教授(当時) 小和田哲男氏

~前回からの続き~

基本情報

 形態:山城 
 標高:394m
 城の整備:登山道あり 
 所要時間:往復2時間
 訪問日:2020.03

駐車場 アクセス

八坂神社周辺に駐車場を見つけて停めさせていただきました。

地質を確認

「謎の城」「まぼろしの城」「経歴不明の城」と言われる皇踏山城

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)
引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

これら各古代山城の立地条件、距離感、地質的にも何か関連があるように感じます。

鳥瞰図 縄張り図

この位置に看板地図があります。

この地図が一番、分かりやすいと思います。形としては、トンガッタ岬のような感じ。この感じは、屋嶋に雰囲気が似ていますね。そして、中央部にいろいろな防御施設跡があるようです。

なにやら、縦横無尽に石垣?が連続して続いています。そして、赤枠内に空堀・土塁・大手道・一の曲輪・二の曲輪・水の手曲輪等々の名称がみえます。事前調査では、この山城は「古代山城」「戦国時代の山城」「中世の山城」など様々な解釈がありますが、

山城Q
山城Q

詳しい城の経歴は「不明」

中世の山城たる証拠

さて、問題はこの山が中世山城なのかどうかというところ。八坂神社付近にあった案内看板を拡大してみます。

何やら複雑です。

非常に

山城Q
山城Q

分かりづらい

というのが第一印象。これまで、多数の有名山城に登って来ました。中世山城は、明確なパターンがあり、一見するとすぐに分かります。

この皇踏山城でも確かに、土塁と空堀が確認することができます。しかし、「中世の山城です」との説明ですが、山城特有の平坦地曲輪、連続曲輪もありませんし、当然、堀切などもありません。山城というよりも、砦跡程度の印象です。

※参考文献 皇踏山城_日本城郭大系

調査報告書を取り寄せる

この山城について、「中世の山城である」と世間の評価は固まりつつあるようですが、管理人としては、「何かもっと謎が隠されているのではないか」と興味をいだいたわけです。そこで、「一次情報にふれてみよう」と考え、「中世の山城である」という情報の出所を探ると、

上記の調査報告書の存在に行きつきました。そこで、本書が「AMAZON」で販売されているのを見つけ(AMAZONスゴイ)、早速取り寄せ、中身を熟読してみたのでした。すると、たくさんの新事実が判明したのでした。

中身の感想

感想としては、

山城渡りQ
山城渡りQ

「当時の認識の限界」

「有名スーパーアドバイザーの存在」
「未検証部分の存在」

の3点について感じました。

調査報告書が作られた頃とは

調査報告書が作られた前後の時代背景はどのようのものだったのかを調べてみました。

鬼ノ城 西門(岡山県)

1971年に鬼ノ城(岡山県)
1973年に大廻小廻山城(岡山県)
1977年に永納山城(愛媛県)
1978年に高安城(奈良県)

が発見され、古代山城研究は異様な盛り上がりを見せ始めたとのこと。その後、1990年代に入ると、各地の古代山城で継続的な調査が行われる。瀬戸内では、

1985年~1989年 大廻小廻山城(岡山県)
1994年~は、鬼ノ城(岡山県)の調査が行われて、大きな成果をあげていた。

御所ケ谷城(福岡県)

1993年に金田城(長崎県)、御所ケ谷城(福岡県)の調査
1994年に鹿毛馬城(福岡県)の調査

1987年に播磨城山城(兵庫県)の発見
1998年に屋嶋城(香川県)の南嶺石塁発見
1999年に阿志岐山城(福岡県)、唐原山城(福岡県)発見

と、研究調査と新しい発見が相次ぎ、盛り上がった時代だったそう。

その頃、岡山県の鬼ノ城では

1971年に同城を発見
1978年に山陽放送の後援で遺跡全体の範囲確認と実測調査

鬼ノ城 東門(岡山県)

が行われ、その後、時間を置き
1993年東門での門礎石の発見
1994年東門跡の発見
1996~総社市によって、外郭線調査が毎年続けられ、鬼ノ城での外郭線調査や城門などの構造が明らかになると、
1999年の城内試掘調査、
2006年からの本格調査が行われ、その存在価値が確認されたとのこと。

※「出典元:向井一雄氏 よみがえる古代山城: 国際戦争と防衛ライン (歴史文化ライブラリー) 2016/12/20」

その頃、皇踏山城では

1977年に皇踏山山城遺跡調査団を編成

この時期は、古代山城研究が

山城Q
山城Q

異常な盛り上がりを見せた頃

1973年、1982年に土庄町が主体となり、大正大学 斉藤忠博士を調査主任に行われる。
1976年 南北180mに渡る雄大な土塁と、その外側に空堀を発見。中世の山城の特徴を示すと判断。
1982年 虎口とみられる場所の発掘調査を開始

1985年(昭和60年)に、「皇踏山廃城跡 調査報告書」としてまとめられた。

一体、誰が築いたのか

現在知られている文献としては

「小豆島肥土庄八幡宮御縁起」、「紀伊国牟婁郡小山氏文書」に、南北朝の際、備前国飽浦の人「佐々木信胤」が小豆島に拠り、吉野南朝に応じた

との文書があるだけで、この城が佐々木信胤氏の拠点と断定することは出来ない。とのこと。

山城渡りQ
山城渡りQ

この情報が、出回っているんですね

大正大学 斉藤忠氏の結論

そこで、小和田哲男氏の登場

小和田哲男。日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本城郭協会理事長。岐阜関ケ原古戦場記念館館長。研究分野は、日本中世史、特に戦国時代史、後北条氏、今川氏。

調査の最終段階にあたり、静岡大学 助教授(当時)小和田哲男氏がスーパーアドバイザーとして登場し、所見を述べられております。

山城Q
山城Q

びっくり!!

小和田哲男氏の所見も合わせ、斉藤忠氏の結論をまとめると

1.三方が崖、一方のみが峯続きであり、築城上の理想的な地形
2.平坦部を利用し、一の曲輪、二の曲輪を備えた戦国時代の山城としての一形態
3.三日月掘りの存在 これは山梨の武田氏が多く用いた。
4.虎口部は、「喰違い虎口」
5.自然巨石を防御壁として使っており、まことに壮観である。
6.一の曲輪は、山頂第二の高所を使い、自然石と人工による石片とを巧みに配した「石敷き」を示し「特殊」である など

斉藤忠氏は、この山を「古代山城」に相応しいと考え、全山を隈なく踏査して古代山城の特色をもつ渓流部を調べたり、防御施設を調べたり、人工的な列石(神籠石)を探したが、古代山城とする確固たる証拠は見つけられなかった。 

文献的な確証がないが、遺構の構造上、中世・戦国期の特色を備えている。と結論付けられています。

小和田哲男氏も、皇踏山城は、古代朝鮮式山城や縄張り等の戦国的手法を示すところもみられず、現時点では、文献上の資料に欠くが「南北朝期に営まれた」とみなされるものであり、「烽火台、見張り台」的な物が築かれたと想定される、というのが結論でした。

調査報告書の未検証部分

管理人は、この調査報告書を熟読して、「ピン」と来たことがありました。まず、報告書が作成された時期は、

山城Q
山城Q

「1985年」

であるという点。この時期は、上記にあるように、新城発見、新遺構発見で古代山城研究が非常に盛り上がった時期

そのため、兼ねてから噂があった朝鮮式古代山城が皇踏山にもあるのか、ないのかという視点が強く意識されが、土塁と空堀の発見から、「大正大学 斉藤忠氏」「静岡大学 小和田哲男氏」により、中世・南北朝期に営まれた「烽火台か見張り台」的な施設だと結論付けられました。

しかし、この1985年時点での古代山城の研究成果はどの程度のレベルであったのでしょうか。山城の存在だけではなく、その遺構状況や意義がどこまで解明されていたのでしょうか。管理人がピンと来たのは、「6番目」のコメントです。

”6.一の曲輪は、山頂第二の高所を使い、自然石と人工による石片とを巧みに配した「石敷き」を示し「特殊」である”

その「石敷き」分布とは

調査報告書は、数値と方位と規模の記載が多く、ちょっと想像しづらいです。また、皇踏山城の解説も
「大正大学 斉藤忠氏」は、現場調査の観点から、
「静岡大学 小和田哲男氏」は中世山城の観点から
書かれており、それぞれ二氏の縄張り図が存在するという展開に。微妙に位置が違ったりします。

そこで、それらを「管理人のレベル」で一つにし、縄張り図を作成してみました。それが、下の縄張り図です。こう観察してみますと、二氏はそれぞれの立場からこの山城を推察していることがより見て取れます。

引用元:国土地理院ウェブサイト(当該ページ)を当ブログ管理者Qさんが加筆修正したものである(スマホで拡大可能) 
山城Q
山城Q

だいたいこんな感じ

これを見てみると、皇踏山城は、ガチガチの「中世山城」ではないことが分かります。確かに空堀と土塁と虎口を確認することができ、ここだけ見ると「中世山城かなあ」と思います。しかし、曲輪というと我々は、

香川県 天霧城 本丸の曲輪
愛媛県 河後森城 古城の曲輪

こういう平坦地を想像しますが、ここはちょっと違います。

引用元:国土地理院ウェブサイト(当該ページ)を当ブログ管理者Qさんが加筆修正したものである(スマホで拡大可能) 

むしろ、曲輪という概念を横に置いておいて、考察した方がシンプルに思えます。特に、この一の曲輪(本曲輪)の場所。ちょっと高所にある「二段敷石」に通じる通路があるなどと考えると、また何か別な施設のようにも思えます。

調査写真を見る限りは、中央部は丁寧に、平らな安山岩敷きが詰められておりました。

山城Q
山城Q

これは、何の施設跡?

この調査報告書では、この一の曲輪(本曲輪)の敷石について、5,6ページに渡り、随所に測量結果が出てきます。また、現場写真も全8ページほど掲載されており、資料も豊富です。しかし、不思議なのは、両氏の見解です。

「大正大学 斉藤忠氏」は、「石敷き」を「特殊」である程度の結論。
「静岡大学 小和田哲男氏」は、この「石敷き」については全く触れていません。

これは、どういうことかと考えました。おそらく管理人の予想では、この調査報告書が作成された時期(1985年)頃は、まだまだ創世記であり、この「敷石」の存在が

山城渡りQ
山城渡りQ

見過ごされていた!

のではないかと考えたのです。そして、そのまま「中世の山城」という情報が定着したために、そのままこの「石敷き」の存在が、忘れ去られたのではないかと考えました。

※参考文献 皇踏山廃城跡調査報告書 (1985年) 土庄町皇踏山城調査委員会 | 1985

果たして

今回の項では、この皇踏山城がなぜ、「中世の山城」という情報が出回っているのかを、元の調査報告書をから改めて情報を整理してみました。すると、当時、それぞれ二氏の立場からしっかり検証がされていたことが理解出来ました。

しかし、管理人としては、その空堀や土塁ではなく、「敷石」に注目しました。これは、いったいどういったものなのか、どんな意味があるのかをまた、次回、書きたいと思います。

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