高知

【高知県】朝倉城 高知県最大規模の山城 苦労が読み取れる特徴的な玉石による石積み 

基本情報

 形態:山城
 史跡指定:県指定史跡
 標高:100m
 城の整備:登城道あり
 所要時間:1時間
 訪問日:2015年12月

駐車場 アクセス

基本的に、駐車場はありません。こちらの「北城公民館」周辺が入口となりますが、国道沿いの駐車場などに停める方が良いと考えます。

地質 周辺環境

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

本当に、高知県の地質はややこしいです。一言で言い表せないのが、上記の地質図をご覧いただいてもお分かりいただけると思います。近くの「岡豊城」の項でも説明しましたが、

この地は、

この四国地方は、主に海洋プレートが大陸プレートに沈み込む環境で形成されており、世界でも非常にまれな複雑な地質の地域である。

特に、この沈み込み帯では、地下浅部で付加体が、地下深部では変成岩や深成岩が、さらに表層では浅海成層とマグマの噴出による火山岩が形成される

国立研究開発法人産業技術総合研究所 四国に残された日本列島5億年の歴史 -20万分の1地質図幅「高知」(第2版)-
 引用元:国立研究開発法人産業技術総合研究所 絵で見る地球科学 付加体 

高知の地下にある「海洋プレート」は、海洋地殻とその下のマントルの一部からなります。海洋プレートが沈み込むときに、海溝にたまった土砂とともに大陸側に押しつけられ、はぎ取られてしまいます。これを「付加作用」といい、はぎ取られた地質体を「付加体」といいます。

つまり、この地図では、黄色い部分が「付加体」であり、高知城がある赤いところが「変成岩」。朝倉城があるところが、「混在岩」という岩相を呈します。

「混在岩」とは、あまり聞きなれませんが、付加体にある混在した岩石を「メランジュ」と呼びますが、逆に付加体ではない場所の混在した岩石は、あえて「混在岩」と呼ぶようです。

つまり、剝ぎ取られてたまった地層である黄色の付加体との際にあるのが、ここ朝倉城ということです。地球活動の最前線にある朝倉城、、、

山城渡りQ
山城渡りQ

こんなところに城を作る!?

縄張り図

北城公民館前にあります。高知の山城では、特に竪堀が効果的に使われているケースが多いです。

場内には、このような説明書きがあります。コンパクトにまとまっており、高知県の山城の特徴を捉えているように思います。特に、連続畝堀りや竪堀は高知県の山城では、

山城渡りQ
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MUST!

城域に入る

割と竹藪化が進んでいる。しかし、しっかりとした空堀も備えられており、かなり大規模であり、入り組んでいる。正直、場所を説明するのが難しい。ここはどこだったか。迷路のようになっています。

この石積みをみて思うこと

山城渡りQ
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見どころですよ

この石積みはなかなか見ごたえがあります。混在岩層なので、花崗岩や流紋岩のような石垣に適した岩が取れない。しかし、取れないからと言って諦めることなく、なんとか造ろうとしている。

山城渡りQ
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土佐人(とさびと)の根性と気概を感じる

しかも、敷石まで葺いている。キレイに整地されております。

詰ノ段までは割とすぐ

この高知では、「本丸」「二ノ丸」のような言い方はせずに、「詰ノ段」「二ノ段」などと呼びます。

詰ノ段近くの井戸

山城渡りQ
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すごい!

ここまで丁寧に作られた井戸はあまり見かけません。そこで、ふと疑問が。。。

これは、いつの時代のものでしょうか。本山家・長曾我部家の石垣の技術力でここまで作ることができるものなのかどうか。井戸を石垣で作るのは、江戸時代以降と聞いたことがあるので、永禄6年(1563年)に廃城となったのであれば、その点から外れますね。キレイなのはキレイですが。

詰西ノ段から西へ行くと

山城渡りQ
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これは、畑??

詰西ノ段からさらに西に向かい「茶臼ケ森」に向かおうと思いましたが、この「畝状畝」。これは「畑」ですね。この整地された畑を踏みしめてまで進む気にはなれずに、ここで引き返しました。個人の土地なのかもしれません。それで良かったと思います。

大規模堀切

この城は、高知県で最大規模の平山城であり、面積も広大です。そのため、至る所に見どころがありますが、藪化もそれなりに進んでおり、撮影者にとっては難しい山城でもあります。

このような大規模堀切もあります。

ため池

土橋

見事な土橋もあります。

詰西ノ段付近の石積み

ここにも土佐人(とさびと)の根性と気概を感じます。しかし、

山城渡りQ
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この石積みはいつのもの?

前述しましたが、永禄6年(1563年)に廃城となった聞きました。この頃には石垣文化は、既に土佐国にもあったのでしょうか。上記の石積みを見る限り、隅石を「算木積み」にして「角脇石風の石」も確認できます。この難しい岩石を使い、算木積みに組むという努力は非常に理解できますが、

山城渡りQ
山城渡りQ

ここは新しいかもしれません

でも、逆に当時のものとすれば、それは高い技術力ですね!

気づき

さすが、高知県最大規模の山城です。頂上のおよそ2000平方メートルの平坦地を有し、周囲にも出丸を築いていたようですが、長曾我部家との抗争の末に廃城となったとのこと。確かに大規模なのですが、敷地が広い分、大兵力も必要でしょうし、地形的に守りづらいと感じました。

結果的に廃城となったわけですから、やはり使いづらかったのではないかと思います。

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