基本情報
形態:山城
史跡指定:国の指定史跡
標高:397m
城の整備:登山道あり
所要時間:2時間
訪問日:2014.08
駐車場 アクセス
鬼退治といえば「桃太郎伝説」
それまで、たくさんの山城に登って来ましたが、だいたい名前はその地名を取ったものが多く、純和風的で気分的に安心感があるものでした。しかし、ここ「岡山県」にある「鬼ノ城」は、聞くだけで
なにそれ!??ヤバい??
と感じざるを得ないネーミング。しかも、かなり大きく広大だということも分かる。なぜ、「鬼ノ城」というのか??岡山県といえば、
誰もが知る「桃太郎伝説」。犬、猿、キジ。。。鬼を退治する。。。
これは行ってみるしかない
ということで、備中松山城訪問のついでにやってきたのでした。
ここに来てみてビックリなのは、「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、鬼城山ビジターセンターが作られており、事前情報をしっかりと学ぶことが出来る。そこで、知ったのが
「神籠石系山城」
「朝鮮式山城」
「中国式山城」
というワード。
何これ??戦国時代の遥か以前の遺構??
朝鮮式山城の分布
時は天智2年(663)。百済国救済を掲げたものの朝鮮半島「白村江(現在の錦江河口)」で、新羅・唐連合軍に大敗した(白村江の戦い)大和朝廷は、朝鮮半島から撤退を余儀なくされた。同時に、国土防衛の必要性が高まり、百済国の技術を借りて、大陸風の城を築城した
というのが大体の流れ。その中で、
日本書紀などに記載がある → 朝鮮式山城
記載がない → 神籠石系山城(こうごいしけいさんじょう)
と分けてきたそうですが、最近では「朝鮮式山城」とまとめて呼ばれている。ちなみに、福岡県の「怡土城」は、西日本最大の「古代山城」ですが、吉備真備が「中国式」を参考に築城したものです。
学会論争が激しそうですが、分布図を見ていて、いろいろ気が付きます。特に、最近見つかった6番目茨城、7番目常城も含め、ここ瀬戸内の守りはかなり堅いですね。なぜなのか、それは鬼ノ城周辺は、
福岡「大宰府」に匹敵する拠点
だったからという説があります。
二つの行政区が存在したようです。確かに、一見、バラバラでも二つの赤枠に内に集中しています。そして、福岡には大宰府がありますが、鬼ノ城周辺にも大宰府並みの「政庁」があったのではないかと言われており、それはまだ
未発見!
いったいどこにあったのでしょうか。まだ岡山の地中に埋もれているんでしょうね。
朝鮮式山城も面白い
管理者は、結果として上の写真にあるメインどころの朝鮮式山城に登ったのですが、やはり「国家的事業」は規模が桁違いです。戦国大名が作るのとは訳が違います。そして、登った感想としても、当ブログの「低山ハイク×山城×ツーリズム」にピッタリ。
また、北部九州の一部に登った際は、「この作り方は確かに朝鮮式山城だけど、防備よりも見せることを意識して作った」気がするものもありました。結果、朝鮮式山城も時代と共に、存在意義が変わっていき、やがて全て廃城となったような気がします。
参考文献:向井一雄 『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
聞き取り:総社市埋蔵文化財学習の館 学芸員の方
縄張り図
変形7角形。石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールとのこと。かなりの大きさ。しかし、日本書紀などの文献には載っていない。
桃太郎伝説とはどう絡むのか
これに関しては、関連サイトに情報が詳しく載っておりますので、リンクを張ります。
「吉備津彦命」が陣を張ったとされている「吉備津神社と吉備津彦神社」と、鬼ノ城との距離は約10km。あり得る話だと思います。果たして「温羅(うら)」は、大陸からの移住者だったのか、百済国の関係者なのか、何者なんでしょうか。
ちなみに、この鬼ノ城の隣の兵庫県たつの市には、同じく朝鮮式山城「城山城」があり、麓には「馬立古墳群」という大規模古墳群があります。
ここには、大小30基の古墳が群集しています。これらの古墳は6世紀~7世紀に作られたものだそうで、中でも姥塚古墳は高さ6m、直径18.5mの円墳で横穴式石室としては、大きなものです。この古墳の特色は玄室の構造で、百済(韓国)の様式といわれており、城の麓の斜面にへばり付くように作らています。
また、岡山県南部の児島半島、玉野市と倉敷市の境に「王子が岳」というとても特徴的な大岩がある場所があります。
その地名の由来にも、「百済国」が登場します。現地の案内看板には、
王子が岳の名前の由来は、昔ここに王子が住んでいたという伝承に由来すると言われています。王子は百済姫の子どもで、柴坂の王子,坂手の王子,筈割の王子,峰の王子,日の王子,錫投げ王子,谷の王子,瓶割王子の8人
とのことです。ここまで名前が出ているということは、つまり、百済国とこの瀬戸内の一帯や、近辺の朝鮮式山城とは関係があったのでしょう。
城域に入る
展望デッキから
うお、遠くに何か見える。霧で見えない。。
建物!?
この日は、大雨の直後で、8月にも関わらず、濃霧が凄かった。しかし、この建物の演出としてはバッチリ。最高。こんなに大きなものだとは思いませんでした。
西門
ひえーーー出た~~。これは、スゴイ。
日本式ではなく、大陸式の櫓を見られるのは、ここだけではないでしょうか。もし見たいなら、大陸に渡らないとみられない。なるほど~、こんな感じだったのですね。ビジターセンターから歩いて10分程度。
この城には、4ケ所の門があったようで、それぞれに発掘作業が完了している。とても大規模で、この西門の隣には、角櫓を伴う。実質的に、ここが正門だったのか??
版築土塁
中国の映画とかで観たことがある~。
「キングダム」で出てそう
この土塀は、版築(はんちく)土塁と言います。道具を使って、土を上から幾度も叩き固めて締め上げる感じ。相当固いようで(触っても崩れない)、これが城全体を覆っていたと考えると桁違いの土木量。
この石垣は何??
みどころですよ
一部、石垣も使われていた様子。これはいったいどういうことなのか。非常に中途半端です。しかし、発見された時もほぼこの形であったとのこと(外側は修復されています)。なんでも、この傾斜に対して、通常の版築土塁でも強度がもたないそうで、
この部分は、あえて石垣にすることで崩壊を防いだというのが正しい見方のようです。また、石垣の下にも「敷石通路」があります。これも通常であれば、敵に足場を与えることになりますが、石垣の強度を保つために「あえて」作ったということのようです。
古代人も試行錯誤しているんだな~
かつてはこんな感じだったんでしょう。これは、登ることが出来ない。
敷石の道
丁寧に作られている
驚くべきは、この敷石。日本にはない技術だと感じました。雨水などから城壁を守る技術。つまり排水効果などがあるということでしょう。日本なのに、こんな大陸用城郭が実際にあったと考えると、頭がクラクラします。
神籠石?
これは、北部九州でよく見る「神籠石」。当初、この列石は何かの呪術的な遺物ではないかと考えられていましたが、この上に土塀があったことが分かっています。基本的には土の下に隠れております。
南門跡
こういう柱跡などが、現代でもそのまま使うことが出来るんですから、スゴイですよね。1200年以上前のモノです。「ホロソ石」と言われており、この瀬戸内にある古代山城に多く使われている技術です。
再び、敷石
ここに敷石があるということは、今はもうないが、かつてはここにも版築土塁が続いていたということでしょうか。
東門とその先には、、、
何やら、建築物がある。あれは、東門。そして、その先にあるのは、名所「屏風折れの石垣」。
遠くからみないと、この斜面を観ることはできません。この石垣を積んだ古代人はスゴイ。積み方は、日本の戦国期山城とは全く違いますね。今回は、地質図は出していませんが、ここは花崗岩が大量に取れる場所。
岩石も大きく、迫力があります。水門も5つほどあります。これは、他の地区にはないほどの規模です。各突出した部分には、それぞれ楼閣が建っていてもおかしくありません。
気づき
白村江の大敗の末、国家存亡の危機に備えた大城の一つが、この「鬼ノ城」。非常に見事で大規模。ここが、瀬戸内古代山城群の拠点だったということが見て取れます。朝鮮式山城のその後の系譜は、途切れてしまいますが、飛鳥時代の「超最先端山城」であったことは間違いないでしょう。
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