長野

【長野県】砥石城 4城の複合体 登城を阻む仕掛け フォッサマグナ

基本情報

 形態:山城
 史跡指定:県指定史跡
 標高:789m
 城の整備:登山道あり ただし登りはきつめ
 所要時間:2時間30分
 訪問日:2013年7月

駐車場 アクセス

引用元:国土地理院ウェブサイト(当該ページ)を当ブログ管理者Qさんが加筆修正したものである(スマホで拡大可能) 

地質 フォッサマグナのど真ん中

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

ちょっとおおきな地質図で確認します。すると、上田市を含むエリアになにやら明らかに違う地質が見て取れます。水色です。具体的には、

山城渡りQ
山城渡りQ

海成層泥岩!!!

海成層泥岩、、、一体どういうことなんでしょうか。実はなんと、ここは、昔は海の底だったのです。それが年月を経て隆起し、地表に出たということです。つまり、そうです。ここは、

山城渡りQ
山城渡りQ

フォッサマグナのど真ん中

フォッサマグナとは、日本列島の真ん中には、大地をつくる地層のことで、「大きな溝」があります。ドイツ人地質のナウマン博士がこの「大きな溝」を発見し『フォッサマグナ』と名づけました。

引用: フォッサマグナミュージアム ホームページ

新第三期の約2000万~1500万年前、中央付近が引き裂かれるようにして非常に深い溝ができました。この溝は太平洋と日本海をつなぐ海(フォッサマグナの海)となり、深さは数百~数千mにも達しています。長野では長野市や上田市全域が含まれ、松本市が西のキワに当たります。

山城渡りQ
山城渡りQ

太古の昔は、日本海側と太平洋側がフォッサマグナで

繋がっていたという事実

フォッサマグナの海には、長い年月をかけて、土砂や海底火山の噴出物が堆積して地層をつくっていきました。そして、深い海が、徐々に埋め立てられて陸になったのです。

引用元:産総研地質調査総合センター,20万分の1日本シームレス地質図V2(地質図更新日:2022年3月11日) より山城渡りQが加筆・修正したものである (スマホで拡大可能)

ですので、泥岩・砂岩・礫岩が砥石城付近に確認することができます。これが、登城するのに非常にやっかいなことになりますけど。また、神川が通っており、近場の上田城とは、全く違う性格の段丘を利用した山城であることが見て取れます。

参考文献:
上田盆地の地形発達と上田泥流の起源 富樫 均 ・横山 裕 長野県環境保全研究所研究報告 11:1―8(2015)
フォッサマグナミュージアム ホームページ
千 曲 川 上 流 地 方 の 第 四 紀 地 質 (そ の 3)飯 島南 海 夫 ・山辺 邦 彦 ・甲 田 三 男・石 和 一 夫 ・小宮 山 孝一 地 球科学 23 巻 3 号 (1969年 2 月)
など

遠望

左から米山城、砥石城、中間地点が本城、右が枡形城となります。なかなかの急こう配です。

縄張り図 現地看板

城域に入る

山門

なんとも、挑戦的な石碑です。が、しかし、後ほど「まさにその通り」と思わず言いたい展開になります。この時は、余裕だと思っていました。

海賊なのか山賊なのかよくわからないマスコットが迎えてくれます。とにかく、ここからいざ登城です。

苦しい登城道

この道です。約30分ぐらい登ります。なんせ、登りづらい登りづらい。浮石も多く滑る滑る。

「地質項」で説明した通り、泥岩が砂や砂利となっており、登ることを拒んでいます。今は、グリップの強力な登山靴なので、なんとか登れますが、戦国時代は、ワラジや草履だと考えたら、かなり苦労したのではないでしょうか

分岐から米山城へ

引用元:国土地理院ウェブサイト(当該ページ)を当ブログ管理者Qさんが加筆修正したものである(スマホで拡大可能)

なかなかのシビアな登城道。とにかく滑るのです。時間的には10分少々ってところですが。

米山城

主郭部はそんなに技巧的ではないです。出城って感じですね。ちょっと古いかもしれません。

「村上義清公之碑」が立っております。ここはかつては、村上義清公のお城だそうです。

砥石城へ移動

さっきの分岐から今度は、右の砥石城の方面へ行こうとしているのですが、この道がまだ続く。武田家が実際にどこまで侵入したのかわかりませんが、これは足軽は苦労する。本当に。

普段、ロープとかあんまり使いませんが、この時は必要でした。あった方がスムーズです。

そして、この七曲り階段。

山城渡りQ
山城渡りQ

先が見えない

かなり気力を削がれる~。しかも、管理者の歩幅と、階段の間隔が合わないときた。ストレスフル。

たまに、このような砂岩?の岩がまるで石垣のようにあります。これは、堆積層が傾いているってことでしょう。

砂岩を加工した階段

これは、石工と城主のおもてなしです。登りづらいだろと思って作ってくれたものです。福岡の怡土城にもあります。あちらは、花崗岩を加工した階段ですが。

砥石城に到着

展望

本城へ続く

馬場

馬場は広いです。

ここから、一気に技巧的になります。それまでの米山城と砥石城は、砦風の小城という感じでしたが、本城は手間に馬場があり、その先にはしっかりした段郭が迎えてくれます。

石垣なども

お約束の矢竹の藪

結構、あちこちにあります。いつも思うのですが、本当にこれで矢が造れたのかどうか。

枡形城へ

そして、さらに尾根道を進みます。歩きやすい!

北端の枡形城に到着しました。小城ですが、場所的に詰城ってところでしょうか。

枡形門

確かに、枡形門の形です。山城の枡形なので、形も不明瞭なのは仕方がないですね。でも、見られて良かったです。

気になる列石群

この龍の背びれみたいな砂岩列はなんなんでしょうか。堆積したものが横になり上部は削れたということでしょうけど、石垣にもならないし、自然のイタズラみたいな気がしますね。

気づき 

山城としては、特に石垣や大規模空堀、堀切があるわけではありません。これまで、数多くの山城に登って来ましたが、これほど砂利に悩まされる城はありませんでした。これが最大の防御の要でしょう。

ま~この砂利も2000万年前の堆積物と思えば、有難いのかもしれませんが。堆積層ならこの城にも「化石」が出てもおかしくないと思いますけどね。

山城渡りQ
山城渡りQ

まさにおっしゃる通り!

「砥石崩れ(1550年)」はたいへんだった

生涯で2回しか負けなかった武田信玄ですが、その一回がこの「砥石崩れ」です。実際に来てみて、砥石城の堅城さを実感しました。急斜面で視界が良く、段丘に出来た天然の要害。攻略は難しい。

その際に、「上田原合戦」にて、敵陣に深く入り込み奮戦、下之条付近において壮絶な死を遂げたという武田方の重鎮「板垣信方」。武田二十四将、武田四天王の一人に数えられるとか。

板垣神社 板垣駿河守信方の墓

その御墓が近くにあります。板垣直方は、死後に神になったようです。

印象的だったのは、愛煙家だったらしく、「タバコ」がお供えされていたことです。今でも愛されています。

その他のお墓

これだけの物が残っているということは、地元の方もその存在意義を理解されているということです。非常に大事なことです。

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