基本情報
形態:山城
標高:394m
城の整備:登山道あり
所要時間:往復2時間
訪問日:2020.03
駐車場 アクセス
八坂神社周辺に駐車場を見つけて停めさせていただきました。
調査報告書の未検証部分
管理人は「皇踏山城」に関する調査報告書を熟読して、「ピン」と来たことがありました。管理人がピンと来たのは、
”6.一の曲輪は、山頂第二の高所を使い、自然石と人工による石片とを巧みに配した「石敷き」を示し「特殊」である”
特殊!?だけ!?
その「石敷き」分布とは
調査報告書は、数値と方位と規模の記載が多く、ちょっと想像しづらいです。また、皇踏山城の解説も
「大正大学 斉藤忠氏」は、現場調査の観点から、
「静岡大学 小和田哲男氏」は中世山城の観点から
書かれており、それぞれ二氏の縄張り図が存在するという展開に。微妙に位置が違ったりします。
そこで、それらを「管理人のレベル」で一つにし、縄張り図を作成してみました。それが、下の縄張り図です。こう観察してみますと、二氏はそれぞれの立場からこの山城を推察していることがより見て取れます。
だいたいこんな感じ
この一の曲輪(本曲輪)の場所。ちょっと高所にある「二段敷石」に通じる通路があるなどと考えると、また何か別な施設のようにも思えます。敷石について、5,6ページに渡り、随所に測量結果が出てきます。また、現場写真も全8ページほど掲載されており、資料も豊富です。しかし、不思議なのは、両氏の見解です。
「大正大学 斉藤忠氏」は、「石敷き」を「特殊」である程度の結論。
「静岡大学 小和田哲男氏」は、この「石敷き」については全く触れていません。
これは、どういうことかと考えました。おそらく管理人の予想では、この調査報告書が作成された時期(1985年)頃は、まだまだ創世記であり、この「敷石」の存在が
見過ごされていた!
のではないかと考えたのです。そして、そのまま「中世の山城」という情報が定着したために、そのままこの「石敷き」の存在が、忘れ去られたのではないかと考えました。
※参考文献 皇踏山廃城跡調査報告書 (1985年) 土庄町皇踏山城調査委員会 | 1985
周辺で「石敷き」遺構となると
周辺で「敷石」となると、どこがあるだろうかと考えるまでもなく、
鬼ノ城
なのです。
かつて、鬼ノ城の正面には、「吉備穴海」という海に面した山城であり、まさに見下ろす立地にありました。また、現在の児島はまさに島でした。
この海峡こそが、大和への最後の防衛線であり、シーレーンでもあり、鉄壁の「防衛網」と「決戦の場」であったということが推察できます。
鬼ノ城の「石敷き」遺構
そんな「鬼ノ城」ですが、管理人も初めて登城した際に「これは他でも見ない」と思ったのが、この
石敷き遺構
だったのです。
鬼ノ城 西門 内部 石敷き遺構
このようにびっしりと、石畳みのように敷石がされております。敷石の役割は、雨水により城壁が崩れないよう保護するためのものと考えられており、その岩石量はおびただしい量となります。この城の随所で確認することが出来ます。
また、この敷石防備は、国内の古代山城では他に例がなく、百済の山城でも数例あるぐらいで、非常に
特殊
な遺構のようです。
鬼ノ城 西門 下段 石敷き遺構
このように、石垣の下段においても、雨水の崩落から守るために石が敷き詰められております。
鬼ノ城 第0水門跡 石敷き遺構
さらにその石敷き遺構は、第0水門跡を過ぎて、どんどん続き
神籠石の辺りまで伸びております。神籠石の上部には、版築土塀があったと考えられることから、この鬼ノ城の版築土塀には、この石敷き構造がかなり多様されていることになります。
第一水門の手前の道 石敷き遺構
第一水門に至る手前の道にもこのような説明書きがあり、ここでも敷石を見つけることができます。ここなどは、藪の中に石垣があるのかもしれません。
鬼ノ城 南門跡 内部 石敷き遺構
そして、南門跡に到着しました
この辺りは、再建と修復作業がされていると思いますが、やはり敷石を見ることができます。
再び訪れてみる
空堀内を北に歩く。草で覆われて分かりづらいですが、高さ1.5m程度の立派な切岸が続きます。これは見た感じ中世の山城。
大手道の南側にも立派な切岸が続きます。大手道を挟んだこの真っすぐな切岸は、かなりインパクトがあります。
「二の木戸」を「大手木戸」としている。この岩が根石でしょうか。
石塊列
二の木戸から一の曲輪に通じる道上にある巨魁岩石列。自然物にも見えるが、ある程度意図的に並べられているようにも見える。
一の曲輪(本曲輪)
今は落ち葉に覆われているが、かつての発掘調査ではこの下に「石敷」が埋まっている。外郭だけ見ても方形に縁どられており、平坦地であることが分かる。
一の曲輪(本曲輪)からの遠望
エンジェルロードが見えます。香川県側がしっかりと見渡せます。
推察 皇踏山城の役割とは
見晴らし台から屋嶋城を見てみる。これは、烽火が上がったら十分に届く距離。
かなり近い
皇踏山山頂から岡山県側を見る。大廻小廻山城は、手前の「前島」が邪魔をして、ここからはちょっと見えない。
皇踏山廃城跡調査報告書 (1985年)を取り寄せて読み、実際の古代山城に登り、それぞれの古代山城の性格を考えてみました。現時点では、「皇踏山城に古代山城があった」という定説はありません。
しかし、この他の古代山城との距離感。地質的な共通点。大和朝廷による防衛網構想を予想しますと、この小豆島がスルーされるということは、防御網の点からも詰が甘いような気がします。(軍事学の専門家ではありませんが)
今回、気が付いた「石敷き遺構」については、鬼ノ城では「石垣の補強」としての役割を与えられています。しかし、日本や百済でも、あまり例がないこの石敷き遺構の存在は、「技術が応用・転用されたのではないだろうか」と近くの鬼ノ城との共通点に引っ張られてしまいます。
本来は「雨水対策」に使われたということでしたら、ここには何があったのか。
この皇踏山は、山頂には湿地帯があり、水を確保することができます。多少の兵士を駐留させておくことも可能だったかもしれません。となると、大きな礎石などはありませんが、湿気を嫌う倉庫?でもあったのでしょうか。
いろいろ想像してしまいます
では、小和田先生はどのように考えているのでしょうか。同氏より石敷き遺構に関しての考察はありませんが、この皇踏山城については報告書の中で、
中世城郭に顕著な曲輪を区画する段の造成が意外に少なく、その意味においても城主の日常の居城としてではなく、烽火台、見張台的なものとして築かれたものと推定されるのである。
皇踏山廃城跡調査報告書 (1985年) 土庄町皇踏山城調査委員会 | 1985 P21
と締めています。シンプルに考察すると、この皇踏山城は、本格的な古代山城や中世山城ではなく、昔から若干の兵を駐屯させる程度の烽火台、見張台であったと考えると、非常に腑に落ちる部分があります。
「シシ垣」というモノ
小豆島は、今は「オリーヴ」を島のシンボルとして観光客誘致を積極的に行っています。しかし、「観光」という言葉には、その土地に「光を当てる」という意味もあります。小豆島は、「石垣の島」でもあるのです。
地質図でもお分かりのように、山頂に「讃岐岩質安山岩」が乗っかっており、その下は「角礫凝灰岩」、下層の基盤は「花崗岩」から出来ております。
その結果、
岩石が豊富
そのため、東側から大阪城へ石が運び出されたというのは有名なお話です。
パッと見た感じ、佐賀県唐津にある名護屋城関連の陣城
「島津義弘陣跡」
の石垣に見えてしまいます。
ということで、江戸時代に島全体を全長120㎞にも渡る石垣で多い、「猪」「鹿」などの鳥獣害から島民を守るために造られたのが「しし垣」というわけです。
その中でも、特異的なのはこの「長崎のしし垣」。
岩ではなく、土塀
なのです。
風化によりドンドン浸食されていますが、これは花崗岩を細かく砕いた「まさど」を練って作ったもののように見えます。このことからも、岩石がないこの地域では、土塀を作って鳥獣害から身を守ったということが読み取れます。
汗と努力の結晶!
小豆島観光は、日帰りですとフェリー時間との戦いとなりますが、時間があれば「しし垣見学」に的を絞って、全島を見て歩くのもかなり面白いと思います。このしし垣は、山中と言えども高低差は全く関係なく、縦横無尽に走ります。
管理人としては、トレランのように、このしし垣を追いかけるようなアクティビティがあれば、立派な「観光」となりえると確信しています。
コメント